江戸さい子の歌集「にひしほ」と足跡      

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没後70年記念特別展「与謝野晶子と旅」

堺市立文化館 与謝野晶子文芸館で開催中~

(平成24年11月17日(土)~平成25年1月14日(月・祝)

                    
【展示構成】
Ⅰ海外旅行―ヨーロッパ旅行100年―
  旅先から出されたハガキ・お土産を紹介、評論活動への転機になったことを知る
Ⅱ国内旅行
  地方の弟子・友人との交流(金沢、江戸さい子)、異文化との出会い(北海道)
Ⅲ「冬柏」で辿る晶子の旅
 掲載された歌、消息欄、「冬柏」掲載歌の自筆資料紹介
Ⅳ絵葉書にみる晶子が宿泊した旅館
  旅館外観や部屋の写真絵葉書を紹介し、晶子の宿泊先がどんなところかを知る

                    

没後70年記念特別展「与謝野晶子と旅」
(平成24年11月17日(土)~平成25年1月14日(月・祝) 堺市立文化館 与謝野晶子文芸館で開催)

                    

                    

                    

                    

                    



                                        【本ホームページ掲載の画像はほとんどすべてその上でマウス・クリックすれば実寸大の画像が見られます。】


                                        与謝野晶子の歌碑が和倉温泉「ゆけむりの宿」美湾荘近接の湯っ足りパークに2011年4月25日に建立されました。

                                        新詩社発行の「冬柏」に掲載されている和歌はこちらからも見られます。

                                        与謝野晶子が江戸さい子に初めて書いた手紙はこちらからも見られます。

                                        与謝野晶子が江戸さい子に宛てて書いた絵葉書はこちらからも見られます。

                                        武島羽衣が書いた小旅行記「花の旅」はこちらからも見られます。


                    

歌集「にひしほ」の巻頭の歌と著者近影(発刊時)

松のをの神をまつりて新しぼりしたたるおとを酒ぐらにきく(歌題:酒)
          

なぜか投函されなかった江戸さい子から与謝野晶子宛の絵葉書
      



                    

長唄「にひしほ」(未完成)
(平成20年12月3日、石川県金沢市長町2-3-13明治堂書店の店主:太田道子氏より歌集「にひしほ」と一緒に譲って頂いたもの)

                    


長唄「にひしほ」誕生秘話
(新聞記事切り抜き)


                    

創作長唄「にひしほ」を披露する松本皐月師匠
(平成32年夏、江戸さい子居室で撮影したもの、左:江戸さい子、右:松本皐月)


                    

新作舞踊「にひしほ」
(平成32年秋、松本皐月師匠宅で撮影したもの、前列左:松本皐月、後列左2人目:江戸さい子))

江戸さい子(江戸才子の号を使った時もある)は明治17(1884)年4月8日、与謝野晶子と同郷の泉州堺(現在の大阪府堺市)櫛屋町7番屋敷にて帯屋の屋号を持つ父、冨永藤兵衛と母、せい(旧姓:田辺)の次女として生まれる(戸籍名:江戸さい)。明治28(1895)年3月26日、堺市立市尋常小学校(四年制)を優秀な成績で卒業し大阪府知事より表彰される。明治31(1898)年3月29日、堺市立堺女学校(三年制、現在の大阪府立泉陽高等学校の前身)を最優秀の成績で卒業後、明治33(1900)年5月、良家家事見習いのため大阪加島銀行の行主廣岡信五郎氏の家庭に入り、三年間同家夫人浅子氏(日本女子大創立者)の薫陶を受けるとともに、明治33(1900)年8月、宮内省御歌所寄人であった大口鯛二(号:周魚)に師事し国文和歌を学び後の人生を決めることになる。

明治41(1908)年2月25日、尾崎紅葉門下の文才に秀でた当時東京在住の江戸肇(号:静川、母の江戸冨(旧姓:山内)の故郷である愛媛県温泉郡「志津川」にちなんだ)と結婚し、夫が北陸新聞記者(後に北陸新聞社会部長を経て金沢毎夕新聞、福井毎日新聞、みくに新聞の主筆となる)に招かれたため、石川県金沢市に移り住んだ。その後、大日本歌道奨励会に入って、瀧廉太郎作曲の「春のうららの隅田川・・・」の歌い出しで始まる唱歌「花」の作詞者として有名な武島羽衣からも歌の指導を仰ぎ、大正2(1913)年6月5日には同会地方常議員を嘱託され、大正5(1916)年3月には大日本歌道奨励会石川婦人部を創設する。大正6(1917)年9月1日、金沢第一高等女学校(現在の石川県立金沢二水高校の前身)校友会の歌道教授を嘱託される。大正11(1922)年8月19日、私立北陸女学校(現在の北陸学院の前身)の国語科教員に任ぜられる。昭和4(1929)年9月1日、金城女学校(現在の金城学園の前身)歌道教授を嘱託される。昭和6(1931)年4月1日、藤花高等女学校(現在の藤花学園尾山台高等学校の前身)の歌道教授を嘱託され、多くの子女に和歌を通して風雅の心を開かせ、昭和36(1961)年1月3日(享年77歳)の雪が舞い散る日の午後9時、肺炎をこじらせて不帰の人となるまで永きにわたって和歌の普及に身を奉じた。

第一次世界大戦(大正3(1914)年~大正7(1918)年)中、大日本歌道奨励会はいったん解散するも、昭和7(1932)年、大日本歌道奨励会石川支部長として、「彩雲(あやぐも)会」を組織し主宰するなど石川歌壇史に大きな足跡を残した。昭和10(1935)年には大日本歌道奨励会再発足二十周年記念にその歌道普及活動の功績により表彰される。

昭和24(1948)年11月3日には、北国毎日新聞社の当時主筆の上山南洋氏の力添えにより処女歌集「にひしほ」を刊行する。「にひしほ」の名の由来は巻頭歌集「新年の歌」の中の冒頭の一首

                     山見れば初日輝き海見ればにひ潮満ちて年たちかへる

に拠るものであろう。翌25(1949)年には金沢市文化賞を受賞し、その喜びを

                     うれしさはただ一筋にたどり来し道に光のそはるこの秋



と詠んでいる。

堺女学校同窓(特にさい子の姉みつと晶子は同級生)のよしみからか与謝野寛・晶子夫妻が昭和6(1931)年1月(この時、寛59歳、晶子54歳)と8(1933)年11月に金沢に来遊してからは与謝野寛・晶子夫妻と親交が深まり、江戸家には与謝野寛・晶子夫妻の短冊や手紙などが多数残されている。与謝野寛・晶子夫妻の手紙(ほとんどが毛筆)や葉書(主にペン書きだが印刷したものもある)を通じた親交は晶子の死(昭和17(1942)年5月29日午後4時30分)まで続き、来沢直前の昭和5(1930)年の12月21日の手紙がその辺の事情を物語っている。晶子が初めてさい子に送ったと見られるその手紙には

                     計らずも御高書を頂き、御親切の思召に感激致し申候、萬々御禮申上候
さて東京を三十日の夜出立し、宇奈月温泉に一月一日まで滞在(延対寺(原文では「延泰寺」となっているが晶子の記憶違いであろう)旅館滞在)、二日に金沢に参り(金沢ホテルに一泊)、翌三日に和倉温泉に赴き、二泊して、山代、片山津両温泉へ参り二泊、七日に金沢へ引返し候予定に致をり候。其以降の事は二日の夜にお目に懸りて御相談申上ぐべく候。女学校にて良人と共々御話し致候ことは八九両日の中に願上候。御地の見物、九谷焼訪問の前に揮毫の時間も欲しく候。よきやうにお考えおき被下御指図願上候。
一行は良人と大学生田中悌六氏(歌人)、堀忠義氏、私の四人に御座候。
北陸毎日新聞より問合せ有之候につき、すべてあなた様と御相談致され候やう御返事差上おき候。
お寒き時に参り候て、皆様に御厄介に相成候こと心くるしく候へども、一度北国各地の雪げしきを見て歌に詠みたき多念の心願を果し申度候、よろしく願上候。
堺の御出身の由を承り、まことに不思議なる御縁とよろこび申候。お目に懸り、いろいろ承り申度候。
猶この度の旅行は主として気まヽに見物して、歌を詠み候ことが目的に候ゆゑ、歡迎會などの御催しに御配慮下さらぬやう願上候。見物と創作の時を得て、しづかに歌を作り候外は、揮毫の時の豫裕を得たく候。俗的なる交渉の少なきやう御防ぎの程願上候。
何れ宇奈月温泉より電報を差上げ申すべく候。      拝復
                                                       十二月二十一日
                                                                                    晶子
           江戸さい子様
                                   御もと

                    
                    
                    

と記されている。二人は、隠し事なく心を打ち明ける間柄だったらしく

                     「私はぐちなど今さら申さず候 まことをあなた様におつげいたしおり候ことなれば御他言下さるまじく候」

と書かれた手紙も残されている。

両者の交友が偲ばれる歌としては、与謝野寛・晶子夫妻が昭和6(1931)年1月2日に金沢へ来遊した時に詠まれた歌

                     み歌みな白玉なさむ北くにの雪をはじめて踏み給ふ君(さい子から晶子へ)

白嶺より先に君をば見まつりぬ金沢城の正月にして(晶子からさい子へ)

ふるさとの昔を此処に語らへばよみがへりきぬ若き日のこと(さらに、さい子から晶子へ)

があり(出典:歌集「にひしほ」p.131の与謝野御夫婦を迎ふ)

                     むつまじく二十五年の春を見る妹背の家に梅椿咲く(寛)

清きかな人を教えて筆とりてこころ足らへる江戸のいもせは(寛)




かへれるはながき契りの初めの日銀を敷けるはきさらぎの雪(晶子)

いもとせの第二十五の春きよし今ややよひに移らんとする(晶子)



が贈られた(出典:歌集「にひしほ」p.120の銀婚式:昭和九年二月二十五日の歌)。返歌としてさい子は

                     おふけなや祝ひ給へるしろがねの今日のうたげに座る夫と我れ

しろがねの盃とりてうれしくもふた方よりのほぎ歌を聴く

相経にし二十五春を祝ふ日に雪をも銀のよそほいと見る

かへり見て二十五年の道細しわれらの力世をば開かず

花咲かむ弥生にやがて入るぬべき我が世の春をめぐまれしかな

家の風揚ぐる日なくて我等経ぬさは云え悔ゆる日もなくて経ぬ

われさへも若かりし日の飲めば見ゆ和泉の酒のなつかしきかな

雪霜になほ堪へながら今年より梅と椿を我が花とせむ

住の江と高砂の松それに似ん奇しき妹背よ隔てぞ住む

人知らぬ命の瀬にもたちしかど沈まで今日の春にあふかな

を詠んでいる(出典:歌集「にひしほ」p.121の御かへしの歌10首)。

昭和5年、同窓の先輩与謝野晶子夫人の北陸訪遊を機とし、新詩社同人となり、与謝野氏永眠の後も明星派の歌誌「冬柏」の同人として歌の道を研究する。

昭和28(1953)年11月21日、金沢市の中心街にある尾山神社(加賀百万石の藩祖前田利家公ゆかりの神社)の森閑とした境内(拝殿の右側脇)に、さい子古希を祝い門下の歌人達によって建立された江戸さい子の歌碑

                     天地のおのづからなる声きかむ人の世などは思ひ忘れて



がある(出典:歌集「にひしほ」p.242の心琴集冒頭の一首)。



                                                             


尾山神社とその境内にある江戸さい子歌碑
(2010年9月20日、新詩撮影)


昭和31(1956)年1月12日、宮中歌会始めに陪聴の栄に浴す。


                    

昭和33(1958)年9月27日、能登輪島の鹿鳴歌会(月見歌会)に出席したおり宿泊先で縁側から転び落ち左肩を複雑骨折し、爾来、金沢市石引にある自宅近くの国立金沢病院に入院。一時退院するも肺炎併発やリハビリがうまく行かず、金沢国立病院に再入院、昭和36(1961)年1月3日、同病院にて死去(享年77歳)。この間、北陸女学校他2校の校歌を作詞、また加賀藩の第十五代藩主であった前田利嗣の後室、前田朗子刀自の和歌集の選に与る。


                    


尾山神社の境内摂社(金谷神社)に前田朗子も祭られている
(2010年9月20日、新詩撮影)


北陸学院の校歌

                     一、森の都の古城の南  柳さくらのあや織るそのは
    若き命の伸び行くところ  信と愛とをかざしとなして

               我等鍛へん  あふるるカ

  (折返し)仰げば高く栄ある校章(シルシ)  星に萬古の光あれ

二、東と西の文化の波の  寄せて一つにとけあふ中に
    日出づる國の少女子我ら  きよきみ教へ正しく直く

               うけて進まむ  眞理(マコト)の道に


は江戸さい子の作詞(出典:歌集「にひしほ」p.72の校歌)であり、元内閣総理大臣の森喜朗氏からも賛辞の言葉を頂いている。

また、怪我をする二日前の昭和33(1958)年9月25日に詠んだ歌

                     菊の秋新宮たてて仰ぎみる代々木の森の色あらたなり

は明治神宮造営記念献詠歌に入選したとの通知が昭和33(1958)年11月7日に入院先の国立金沢病院に入り、去る昭和25(1950)年の明治神宮ご鎮座三十年記念献詠歌に入選したのに次いでの二度目の入選であり、病床の江戸さい子には何よりの贈り物であったらしい。

辞世の歌

                     われはゆくうたの中山美しき花さくみちを心しづかに



(歌集「たむけ草」より転載)

はまさに江戸さい子の歩んだ道そのものであり今でもその美しい道を彷徨っているのだろうか。

参照資料:  平成元年度「いし曳」3号、p.28、小立野校下婦人会・小立野婦人学級発行(平成元年11月20日)
「郷土と女性展目録-珈凉と千代を中心に-」75-84、石川県立図書館・石川県図書館協会・石川郷土史学会編集発行(昭和50年10月28日)
「石川婦人百年の歩み」p.285、石川県婦人団体協議会編北国出版社発行(1972)
「与謝野晶子の書簡見つかる」、北国新聞(夕刊)昭和56年4月28日(火曜日)6面
江戸肇・さい子3男「江戸重富」(平成14(1902)年3月18日没)所有メモランダム記事
江戸さい履歴書(大正11年6月)および(昭和6年4月)
「"菊の秋新宮たてて・・・"明治神宮献詠歌江戸さい子さん入選」、北国新聞(夕刊)昭和33年11月9日7面





義経しのぶ情熱の歌

 幼なじみの念願で建つ

寒々とした日本海を松林ごしにかいま見る小高い丘、ここ安宅の関跡に「君死に給ふことなかれ」の情熱の歌人、与謝野晶子の歌碑がある。この碑は小松彩雲(あやくも)会という短歌会の奔走で、小松市も一ハダぬぎ昭和28年6月2日に除幕式が行われたが、この陰には県下短歌会の先達、江戸さい子という女流歌人の切なる願いがこめられていた。
与謝野晶子と江戸さい子は二人とも大阪府堺市の生れ。晶子はヨウカンの老舗、駿河屋、さい子は"帯屋"という屋号の酒屋が実家だった。母同士が寺子屋の同級生、晶子もまた堺女学校でさい子の姉みつと同級だった。家も三町と離れず「晶子さんをうちの嫁にもらったら・・・」と帯屋で話していたくらい親しい間柄だった。矢ガスリの着物に紫シュスの帯をしめイチョウ返しに結った晶子と赤いカノコに桃割れ姿のさい子は街で会ってもそのころのこととて黙っておじぎを交すだけだった。

明治三十四年、晶子は与謝野鉄幹のもとへ走り故郷を出た。その後さい子は堺女学校に入り歌を習い始め、金沢の江戸家に嫁いでからも歌を続けた。さい子の指導で彩雲会が生れ、金沢を中心に短歌同好会が少しずつふえて行った。昭和六年(原文では「五年」となっている)正月夫鉄幹とともに北陸路を訪れた晶子は金沢駅頭に出迎えたさい子と再会した。幾十星霜はその昔のイチョウ返しや桃割れを白髪と変えたが、幼なじみの親しさはかえって倍加した。晶子は感慨を「白峯よりさきに君をば見まつりぬ(原文では「の」となっている)金沢城の正月にして」の歌を託してさい子に贈った。芦原温泉でこたつを囲みながら五十首ずつよみ合った夜もあった。晶子のさそいでさい子はその年から明星派の歌集"冬柏"に投稿し出した。御歌所派だったさい子と彩雲会に明星派の影響が現れ始めたのはこのころのことである。

昭和八年秋再び北陸を訪ねた与謝野夫妻は安宅の関を訪ねたが、情熱の歌人晶子は同じく情熱の青年武将義経ゆかりの関跡に心ひかれた。ここで十数首をよんでいる。

                     うづくまる安宅の浜の舟小屋よ勧進帳の強力のごと

仮の関あらぬ世なれど安宅にて我をとどむる松と波音

美しき陶ものの獅子顔あげて安宅の関の松風をきく

住吉の神をかしこみ退きて富樫のすゑし新関のあと

その後も幼なじみで歌道の先輩後輩という間はこまやかに続き、県内の短歌に徐々に明星派の色をこくしていった。鉄幹は昭和十年、晶子は昭和十七年に他界した。さい子はこの時から晶子の歌碑を県内に残したいと願うようになった。そして選ばれたのが安宅だった。小松彩雲会も快く協力し遂に念願のが建てられた。

                     松たてる安宅の砂丘(原文では「松風のたてる沙浜」となっている)その中に清きは文治三年の関




歌の右に「晶子」左に「さい子かく」と記してある。その昔の菓子屋と酒屋の(原文では「と」となっている)いとはんが右と左に配されたのも面白い回り合わせといえよう。

七尾市御祓川のほとりにも晶子の来訪を記念する碑が今年の五月(注:現在は御祓川のほとりではなくJR七尾駅から徒歩5分、情報処しるべ蔵横に移されている)、能州文化連盟の手で建てられた。

                     家々に珊瑚の色の格子立つ能登の七尾のみそぎ川かな



元七尾市立図書館長であり、現在石川県歌人協会顧問の梶井重雄氏が江戸さい子宛に送られてきた書簡(昭和31年6月21日付)中の写真およびその裏書き



だがこちらの方はあまり知られておらず、時折退屈しのぎの観察者が「晶子」とあるのに首をかしげては通り過ぎてゆく程度だ。

出典:  朝日新聞切り抜き記事「碑(いしぶみ)⑤与謝野晶子歌碑」(昭和31年10月24日(水曜日)発行)から





特集 与謝野晶子と能登

晶子ノート      梶井重雄

晶子の能登訪問は前後二回であり、大正十四年(四十八歳)の夏休み。和倉の夏季学校の講師として臨席したのが始めてであり、二度目は夫妻同伴で昭和六年一月和倉七尾を訪うた。寛が五十九歳、晶子が五十四歳であった。
大正十四年の晶子訪問は平野万里の晶子年譜などにもなく、当時の新聞なども目下調査中で、その折の晶子の歌などもいまだに知り得ない状態であるが、七尾の北村力氏の語るところによると晶子の講演は「みだれ髪」の代表作「やは肌の熱き血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君」の歌を中心とした破天荒の文学論であり、まことに花やかな話であったという。当時の和倉の夏季学校は鹿島郡教育会の第四部即ち田鶴浜、金ヶ崎、高階、相馬、赤倉の五校が中心になって夏季学校を開いたもので、講習会員は能登全般にわたって盛大を極めた。講習会場は御便殿であり、本部から御便殿まで、晶子と相合傘で傘をさしかけたのが、北村力氏と三輪秀紀氏であったというが、その思い出を語る北村氏はいかにも愉快そうである。その本部で撮った「和倉夏季大学の一風景」という二葉の写真は、北村力氏の所蔵するところであるが、晶子が写っていないのは残念である。しかしながら、講習員は一晩か二晩とまり、晶子と船で弁天崎に遊び又栄螺を食べたりした。当時七尾の男子校では、ワンマン校長でならした石橋詮校長全盛時代で、こうした道を説く君を後目に、やは肌の熱き血潮の君を招くには「野に叫ぶもの」を出版して、それらに抵抗した北村力氏や大橋吉蔵、諏訪藤馬などの進歩的教育者の声援が必要であったという。いずれにしても、晶子の能登入りは、『明星』の新風を吹きこんだ波瀾の数日であったにちがいない。
それより六年後の昭和六年に再び晶子は和倉を訪れる。晶子は良人と同伴で越中宇奈月温泉で新年を迎え、二日に金沢、三日の午後二時十分金沢駅発列車で和倉温泉に向い、和倉で二泊することになる。この当時のことは昭和六年一月の北陸毎日新聞に詳しくのっており、和倉、七尾での歌は昭和八年刊行の短歌全集に寛の二十首、改造社版の与謝野晶子全集第五巻に晶子の十八首がのっており、夫々見事であって、晶子と寛競詠の感がある。例えば
①屏風崎それに対して島屏風左に長し海まろく入る(寛)
②むか(原文では「対」になっている)ひたる屏風が崎と嶋(原文では「島」となっている)屏風そのかなたにて鐘の鳴る海(晶子)
寛のは結句の「海まろく入る」の表現がなかなか適切であり、晶子の「鐘の鳴る海」の技巧も天晴れで、互角というところであろう。
③あけぼのの紅を流せる入海に立つ人黒し鴨猟の船(寛三首)
④立山の雪より出づる紅き日が能登の入江にひたす片袖
⑤入江より見る沖空を橙子(だいだい)と紅の二段に染むるあけぼの
⑥能登島と入江の船は暗くして日はぬひとりす夜明の波に(晶子二首)
⑦能登島に鴨をもとめん船出づと渚に火焚く海のしののめ
和倉の海の日の出はまことにすばらしいもので、私も苫心して作った経験があって、実は歌わんとして歌い得なかったものである。これは晶子の二首がごたごたしていて、焦点がはっきりしていないが、寛の方は三首とも車純化されており、色彩的であり、印象が鮮 明で立体的である。
⑧雨に濡る冬も七尾の荒磯に沿海洲の木を運ぶ船(寛二首)
⑨雪まじり七尾の街に雨ふれば柳のもとを車よりゆく
⑩わが車能登の七尾の雨に立てしばらく思ふアムステルダム(晶子三首)
家々に珊瑚の色の格子立つ能登の七尾のみそぎ川かな
⑫海たかく黒き油筒を着る如き大船も寄る七尾のみなと
今度は断然晶子に軍配をあげたい。アムステルダムはオランダの首都であり、ゾイデル海に臨んでいるヨーロッパ有数の貿易港であり、佐藤春夫の「晶子曼荼羅」によると、晶子のヨーロッパ旅行はウヰンやベルリンにおいて於いてはいささかも心慰まず、アムステルダムの浄く静かな風景に接してはじめて心の安らぎを持ち得たという。晶子の心に映じた七尾港はその様に浄く、物しずかで夢をさそうものであったのである。次の「家々に」の歌は、平野万里が「晶子秀歌選」に載せた秀歌であり、又この歌は当時の北陸毎日新聞にも数多くの歌の中から、晶子が自選して載せた歌である。かって晶子が駿河屋の令嬢(いとはん)であった頃に店の帳場格子(けつかい)の中で読んだ源氏物語や落窪、狭衣さては八代集なども、今は七尾の御祓河畔、珊瑚の色の格子立つ家々を見るにつけて、思い出されたのであろう。「珊瑚の色の格子立つ」が艶にひびくのも、そうした晶子を連想するが故ではないだろうか。かって江戸さい子さんの所有であり、今は近江まさ子さん所持の此の歌の半切が、その文字が又艶で、みやびやかで繊く強い線で風韻の高いリズミカルな一品である。歌碑にはこの線の美しさを出したいと努力したが、線があまりにも細くて、その細い線を石に表現することはなかなか至難な業であった。しかし石は選ばれた伊予の姫石であり、その姫石という名も石質もよく、形態は水の流れを思わせるリズミカルなもので申分がなかった。あとは此の歌にふさわしく、夢をそこねない背景がほしいと思うだけである。
次の「海たかく」の歌もいい。七尾港の讃歌である。「海たかく黒き油筒(ゆとう)を着る如き大船」という表現はうまい。寛の方は「沿海洲の木を運ぶ船」などといっているが、歌が平板に流れている。「雨に濡る」の歌も曲がない。晶子の勝である。
⑬和倉びと入江に黄なる簗(やな)を立つ昼も其処のみ月ある如し(寛二首)
⑭山帰来磯山に採る紅き実も絵として友の写す旅の記
⑮入海の机の島にしら波の寄るとも見えず老いにけらしな(晶子二首)
⑯海見ればさびし出島の和倉にて北海道のつくるならねど
総じて寛のは叙景歌にいいものがあり、晶子のは抒情歌に秀歌がある様に思う。
「和倉びと」の歌は、今も昔の如く、入江に黄なる簗を立てて、此の歌さながらの景が見られ、「山帰来」の歌の友とは金沢の画家堀忠義氏であろう。堀氏の当時のデッサンを交えた旅の記があったら是非見たいものである。二首とも印象が鮮明でいい。晶子の「入海の」の歌は、珍らしく机島を詠んだものであるが、家持や万葉を連想したものではなく、「入海の机の島にしら波の」までは「寄る」の序歌になっており、波の寄ると年の寄るとを掛けている。晶子は当時五十四歳で、一世を風離したかの明星の才媛も流石に寄る年波は争えず、机島による白波に自らの老いを嘆いているのである。次の「海見れば」の歌にも晩年の晶子の感慨が見られる。寒い一月の北の入海の淋しい情景に見入っている晶子はもう往年の晶子ではない。物静かにも美しく年老いた晶子である。
晶子の当時の思想はどんなものであったろうか。九日金沢市女子師範講堂に於て、市内女学生の為めに行った講演は「女子の独立」と題するものであり、その要旨は女子の人格完成について論じたものであり、思想的独立、経済的独立、創作的独立の三種の独立を具備して、はじめて女子の人格は完成すると説いている。第一の思想的独立の為には、女子が自修独学して、男女とも同程度の書物を読み、同じ思想、同じ見識を持つことを望み、第二の独立の為めには精神的にも肉体的にも何等かの勤務に従事すべき事をすすめ、第三の独立のためには、女子が創作すべきこと、その創作の一として文学の創作をあげている。以上によって要するに女子が従来の依頼主義から脱して、男子と対等の実力を以て独立しつつ、男子と協力して社会連帯の生活を実現することが晶子の理想であった。その理想を晶子は身を以て貫いたのである。晶子の理想とした此の女子の独立は、その当時に於てはまことにすばらしい先覚的な思想であり、それは新憲法後の今日に於ても、現代女性の理想すべき真理である。

輿謝野寛の歌(短歌全集所載)

屏風崎それに対して島屏風左に長し海まろく入る
軒ちかく月をゆすれる浪のほか平たき入江おはかたは白
能登島を出でたる月が寝てのちも障子に白し前の海より
伸び上がり海の日の出を犬も見ぬ我がある宿の下の岸壁
あけぼのの紅を流せる入海に立つ人黒し鴨猟の船
立山の雪より出づる紅き日が能登の入江にひたす片袖
入江より見る沖空を橙子(だいだい)と紅の二段に染むるあけぼの
和倉びと入江に黄なる簗を立つ昼も其処のみ月ある如し
和倉の湯さむるを待ちて人浴びぬ歌に浸ると異なれるかな
こわだかに笑ひ三味ひく大阪の客も歎けり熱き磯の湯
山帰来磯山に採る紅き実も絵として友の写す旅の記
一つ着く発動船を榛柄に湯の客の見る雪ぐもりかな
たそがれて友に離れし雁のごと能登の入江をわたる櫓のこゑ
海こえて島寺の鐘のどかにもひびける後に夜の時雨ふる
内側の入江くもりて島くろし沖にのみある薄月夜かな
櫂とりて腰蓑のひと出で来れば鵜分かれて洲の岩を去る

                    

つつましき和倉の浪は風の日も白き罌粟ほど磯に散るのみ
和倉より立つ日となりて海荒れぬそれさへ楽し船路ならねば
雨に濡る冬も七尾の荒磯に沿海洲の木を運ぶ船
雪まじり七尾の街に雨ふれは柳のもとを車よりゆく

輿謝野晶子の歌(与謝野晶子全集第五巻所載)

松原の前に霜おく洲のありて歩み出できぬ頭巾と櫂と
能登嶋と入江の船は暗くして日はぬひとりす夜明の波に
能登島に鴨をもとめん船出づと渚に火焚く海のしののめ
霜白し能登の出島の松原の和倉の湯場に鳶うたひつつ
入海の机の島にしら波の寄るとも見えず老いにけらしな
海見ればさびし出島の和倉にて北海道のつくるならねど
有磯丸氷見の海辺へさそへども能登の和倉になほ客たらん
入海をかこむ岬と嶋々(原文では「島島」となっている)が一つよりな(原文では「無」となっている)き櫂のおとをきく

                    

桟橋に船ありかかる小船にてわが見し港かぞへられつつ
湯場の客また桟橋に出でてあり杭(くひ)をば愛でて鴉寄るごと
むか(原文では「対」となっている)ひたる屏風が崎と嶋(原文では「島」となっている)屏風そのかなたにて鏡の鳴る海
桟橋に見れば和倉の湯の宿の皆方船(はこぶね)に見えもこそすれ
山帰来端(はた)のみさきにあがき祈る如かじ珊瑚も北国の日も
船も着き月のひかりもとくとどく和倉の宿の石の欄干
能登の国鹿島郡をふなばたと見なして吹けり冬の潮かぜ
わが車能登の七尾の雨に立てしばらく思ふアムステルダム
家家に珊瑚の色の格子立つ能登の七尾のみそぎ川かな
海たかく黒き油筒(ゆとう)を着る如き大船も寄る七尾のみなと



与謝野晶子さんのことども      江戸さい子

昭和六年一月二日(原文は「三日」となっているがこれはさい子の記憶違いであろう)の夜、与謝野寛・同晶子の御夫妻が初めて金沢へ来られることになり、その記事が新聞に出ると、晶子夫人にあこがれを持つ婦人界層には一しほ人気が湧きたったのであります。私も晶子夫人とは同じ泉州堺市の生れであり、学校も同じ堺女学校を出ている関係上、来沢される日を待って是非お目にかかり、久しぶりでいろいろお話して見たいと待っておりました。当時私は不束乍ら、県立金沢第一高女の歌道部を持っておりましたが、同校の松宮校長が私を呼んで「与謝野先生が来沢されるに就て、もつと歓迎の方法を考えられてはどうですか」とのことでした。もとより私も前述の如く内面的には考えてもおりましたが、与謝野先生の来沢については、永井柳太郎氏より金沢市の方へ御依頼があつたとも聞いていましたので、あまり出過ぎたことは出来ないと思うていたのです。けれど松宮校長のおすすめがあったので、それではといふことになり、晶子夫人へ打合すひまもなくだしぬけに金沢駅へお迎えに出ました。旅館はその当時駅前にあった金沢ホテルと決まっていたので、直ちにホテルへお供して、旅装を解かれるひまもなく、会談は始まったのであります。晶子夫人はあまり思ひがけなかつたので、そのよろこびは一通りでなく、金沢へ来て富永(私の旧姓)さんにおめにかかれるとは全く意外でこんなぅれしいことはないとのこと、私も御同様でついお話が長くなっているうちに大分夜が更けたので、おいとまをしました。その時に夫人から私へ下さったのは

  白嶺より先きに君をば見まつりぬ金沢城の正月にして

といふ一首でした。その翌日それを立派な懐紙に揮毫して下さったのは何よりもよい記念になって居ります。それから御滞在の間は毎日お伺ひしてお供の間来る日は、御一緒に出かけました。和倉へおいでになったのもその時です。生憎その時は御一緒にまいれませんでしたが、和倉の歌はいただいてあります。昨年七尾市に建った晶子歌碑の歌

  家々に珊瑚の色の格子たつ能登の七尾のみそぎ川かな

といふのもその時の作で、私が半折に書いて頂いてあつたのを、梶井氏が見事にうつし取って彫らせられたのです。(その半折現在の持主は七尾市三島町の近江まさ子さんです)和倉から金沢へ戻られた御夫妻は講演会や歓迎会や有志の招待にも出られ片山津、山代、山中等の温泉にも浸り、最後は福井県の芦原へゆかれました。その時はお供して開花亭に一晩泊り、炬燵を囲んで十二時頃迄に五十首の歌をよみました。東京から随行された当時大学生であった田中悌六氏や金沢人の画家堀忠義さんも一緒でしたが、私は一晩に五十首よんだことは初めてでなるほど、これ程にしなければならぬということを痛感しました。それから敬服に堪へなかったのは、晶子夫人が旅行中によまれる多数の歌を、皆その日その日に整理なさつて直ちに、月刊歌誌「冬柏」の原稿をつくってしまわれることです。夜の一時二時になっても決して仕事を翌日にお残しにならぬのは、さすがに偉い方と思いました。氏の旅行は北陸の雪を見ることが主

                    

眼であったそうですが石川県に十日ほど滞在せられ、随分広範囲に渡っておよみになりました。 以上

   △ 晶子の揮竃 (江戸氏所蔵のもの)

有磯丸氷見の海辺へ誘へども能登の和倉になほ客たらん(半折)
棧橋にたてば和倉の湯の宿はみな方船のここちこそすれ(横物)
入海をかこむ岬と嶋嶋がひとつよりなき櫓の音をきく(色紙)
むかひたる屏風が崎と嶋屏風そのかなた(原文では「彼方」となっている)にて鐘の鳴る海(色紙)

                                         

                                        

能登の和倉温泉美湾荘代表取締役社長多田計介氏の手紙(2009年1月9日)に添えられていた美湾荘所蔵の色紙コピーと御祖父様のメモ書き(予約主任の大島まり子さんを通して入手)
メモ書きによれば、もともと江戸さい子が所蔵していた晶子のこの色紙をその3男である江戸重富が美湾荘のご主人に1964年3月頃譲ったようです。当時、確か江戸重富はNHK七尾放送局長をしていたので美湾荘のご主人と何らかの深いつながりがあったのでしょう。

上記の美湾荘にまつわる史実や残存資料と照らし合わせると、この歌はひょっとすると美湾荘で詠まれたものかも知れないと推察されなくもありません。

しかしながら、与謝野夫妻が和倉温泉に2泊3日(昭和6年1月3~5日)した時の宿泊先は銀水閣であったことは、「新鵜」第2号(昭和32年5月 新鵜発行所)掲載の堀忠義画伯の随行記「与謝野晶子さんの思い出」の内容「能登へ随行したのは金沢から七尾、和倉だった事を覚えている。和倉の銀水閣へ一泊か二泊したと思う。」や与謝野晶子が江戸さい子に出した銀水閣の絵葉書(昭和10年7月28日投函)の添え書き「ここに二夜とまり候ひしか」、ならびに「冬柏」(第2巻第2号、p.167、昭和6年1月25日発行 新詩社)の寛・晶子執筆の消息記事の内容「三日は午前に市の助役市川潔氏御夫婦、第一高等女學校長松宮助之丞、縣立工業學校長山脇雄吉、江戸夫人、長谷新一郎諸氏の御案内で舊藩時代よりの名園「兼六公園」を隈なく鑑賞し、犀川に臨む旗亭鍔甚で市川山脇兩氏より午餐の饗を受けて色色のお話を聞き、午後の汽車で能登の和倉溫泉に著いて銀水閣に泊つた。今夜は折折海上に月を見、翌四日の曙光も美くしかったが、二泊して五日の朝出發する時は雨となった。」などの資料から明白なことから、この晶子の歌は銀水閣で詠んだと考える方がより自然だと思われます。なお、「銀水閣」は2011年4月25日に閉館致しました。

参考:
北国新聞ホームページ「銀水閣が営業停止 七尾市和倉温泉 東日本大震災も影響」
JC-NETホームページ「和倉温泉 銀水閣/事業停止 弁護士一任」

                                                             

能登の和倉温泉美湾荘代表取締役社長多田計介氏が与謝野晶子歌碑建立実行委員長(事務局:和倉温泉観光協会・和倉温泉旅館協同組合宮西 直樹次長)の多大のご尽力により2011年4月25日(月)に上記与謝野晶子の色紙の歌が歌碑となって美湾荘近接の「湯っ足りパーク」に建立されました。

写真は除幕式(2011年4月25日)の際に美湾荘代表取締役社長多田計介氏(左側)と江戸さい子の直系曽孫にあたる新和也一家が歌碑の前で撮ったものです。

参照:
ゆけむりの宿 美湾荘ブログ「海を望む歌碑~与謝野晶子」
北国新聞社ホームページ「与謝野晶子の歌碑、ゆかりの和倉に建立 関係者、新たな魅力に」

                    

美湾荘から夜明けの嶋屏風を望む
(2011年4月26日、新詩撮影)




おほとり(原文では「鳥」となっている)のぬれてこしごと帆をたたみ歸(原文では「かへ」となっている)れる船の一つある磯(色紙)

                    

夜の明けぬいかの墨にもまみれゐし能登の小島のみえ渡るかな(色紙)
いにしへの富樫の荘にめぐり来ぬ能登の和倉を朝たちてわれ(半折)
越の春くし柿ほどの雪をして山たちならぶ朝ぼらけかな(色紙)
雪の山そひて大守の林泉の月夜のさまも示すなりけれ(短冊)
滝落ちていほりの中へくぐり入る枕にすべきものならなくに(同)
九谷なるかまが作るも山代の薬王院に咲けるも椿(同)
櫛めきて細き丹塗りの格子より山代の湯の雨ながめまし(同)
風おこりうす紫の波動く春のゆふべの片山津かな(同)
ともし火の招くけしきもあはれなり湖水と海のはさみたる村(同)
四つつづけさせばあかゑ(原文では「赤絵」となっている)の皿めきぬ山代の湯のよしのやのかさ(原文では「傘」となっている)(色紙)

                    

松風や寛和の君と千手をばならべいつける山寺にして(短冊)

     以下昭和八年の分

那谷寺の石をなでつつなはこれに通へる身とは思はれぬかな(同)
那谷法師ふか紫の岩むろの中にて経をよむめでたさよ(同)
那谷の寺加賀に別れん我がこころ淋し如意輪あはれみ給へ(短冊)
その(原文では「園」となっている)ゆきてしぐれ(原文では「時雨」となっている)のふるも日のあたる橋もわた(原文では「渡」となっている)りぬ金沢の秋(色紙)

                    

石川の金沢城の向ひ山河北の野あり草もみぢ(原文では「紅葉」になっている)して(色紙)

                    

                                        

                    与謝野寛・晶子夫妻が揮毫した色紙を江戸さい子に贈ったときの色紙函



与謝野晶子さんの思い出      堀 忠義

私が与謝野晶子さんを知ったのは、金沢二中を卒て東京の文化学院美術科へ学生として入った時から始っている。当時晶子さんは学院の学監として、又文学部で源氏物語の講義をして居られるのを聴講して以来親しくして貰い、学院卒業後、学院美術部に残って勤務する事になり、同じ荻窪に住んでいた為に、なお一層親しく大変にお世話をやかせ、又晶子さんのお仕事のお手伝もして差上げた。その頃学院女学部の生徒では女優になった入江たか子、夏川静江、評論家の阿部つや子等もおり皆、晶子さんの教え子だった。
私も美術部在学中昭和三年夏二科展に同級から二人だけの入選者となり、兼六公園の作品で初入選したが、晶子さんも私の作品の理解者の一人で、何かとはげまして貰った。それ以来毎年兼六公園を画題にした作品を私は二科展で発表していたし、文学部の学生で山代から来ていた吉野一枝さんが北陸の歌をつくって晶子さんに見て貰っていたので、北陸方面を一度も訪ねた事のない晶子さんも、御主人の寛さんも興味があったらしく、常に北陸へ行って見たいとの希望を持って居られたのが、昭和五年暮の三十日夜上野出発、出かけるから私に案内役で同行して欲しいと話があり、その旅行に随行する事になった。
三十一日の朝、宇奈月に着き、雪の中を風景を見て歩き、延対寺で暮を過し、昭和六年元旦を迎へ、一、二日程宇奈月で歌をつくり、絵を描いた覚えがある。寛、晶子御夫妻と東京帝大学生だった歌のお弟子の千ケ崎悌六さんに私の四人の旅だった。その悌六さんも今では一水全会員として立派な洋画家となって、東京に住んでいる。宇奈月から金沢に向い、晶子さんの女学校時代の友人で金沢に住んで居られる歌人江戸さい子さん達に迎えられ二、三日金沢に落ちつき、金沢の歌を沢山つくられた。
能登へ随行したのは金沢から七尾、和倉だった事を覚えている。和倉の銀水閣へ一泊か二泊したと思う。和倉のお湯が熱いので晶子さんがおこまりの様子だつたと思う。氷見あたりから舟で来るお客が銀水の裏あたりに舟を止めて居て、朝送られて舟に乗って帰るのを晶子さんが興味を持って室からながめて居られた。そんな歌もあつたと思う。
朝、日の出の美しさに感動されたか、晶子さんから隣室に寝ていた悌六さんと私を、日の出が大変美しいから起きて見なさいと起され、末だ若かった私も悌六さんも眠いのを、不精不精起されたが、おかげで「日の出」の小品を一点描く事が出来た事も思い出の一つだ。私は昼の間は晶子さん達と風景を見て歩いたり、絵を描いて過し、夜は歌の仲間に入れられたり、皆さんの勉強にひきずられた形になっていた。
晶子さん達は題を出して置いて、その題で昼の間に見て来られた風景等が、すぐ立派な歌となって出てくるらしく、勉強のものすごさも、若い私達の参考になった。出来た歌の提出〆切は毎日夜の十二時で、それから全部の人の歌も含めて、添削し終り、批評をしてから寝床へ入られるのだが、朝も早くから起きて勉強して居られる。その間には半折、色紙、短冊等の書物までされる。その努力は並々ではないと思う。そして家庭にあっては十人以上の子供さんを全部優秀な人に育て上げておられる母である。常人では出来ない事だと思い、偉くなる人の精進は大変なものだと感心させられた。そして気の短かい寛さんの良き夫人でもあった。私が絵を描き晶子、寛さんが歌を書かれた合作の半折等の思い出はつきない。しかし、かなり昔の事で忘れている事が多くて記憶が少い。
和倉から金沢へ、片山津、山代、郡谷、山中、福井、芦原、東尋坊、三国と経て、名古屋へと歌の旅を続け東京へ帰った。そして昭和七年夏私は欧州へ旅立った。晶子さんの歌集に北陸の歌も沢山あり、私の事を歌われたものも出てくる。絵師忠義の二十八春、我が絵師は等と歌われているのはそれだ。



【参考記事】
与謝野先生夫妻のある思い出      酒井英一

与謝野夫妻の講演を女師講堂で聞いたのは大正十三年だつたか、十四年だつたかはっきりしない。竹沢春藤など当時の先生方もおいでるのだし、女師生二高女が聴衆だつたから、いくらでも聞き質せる人々がいるのだが、例によって物ぐさな私なので。それでも、大 正十四年三月女師卒の近所の高橋夫人だけに聞いて見た。その答-在学中にそんな記憶はない。併し十四年の夏休み、和倉の夏季講習に晶子夫人が講師として臨席され、始めてその風耒に接したと。そうすれば夫人の来県がもう一回ふえることになる。
とにかく、当時私は女師附属にいたかけ出しの教員に過ぎなかったので、夫妻の当時の足どりなど、何の知るところもない。ほかほかと汗ばむ様な明るい日ざしの記憶があるから、どうしても五六月頃か、そして大正十四年か十五年になりそうである。何となれば私は十五年の九月には同校にいなかったから。
慶応大学教授との中山校長の紹介よろしく、壇上に立った寛先生は紺サージの背広で白いカラーが印象的だった。が、”これが虎の鉄幹子か”と疑われる程、気力の抜けた姿だった。それに声もぼそぼそとして緩いバスである。
日本語の母胎は支那音である。ちち(父〕はは(母〕………皆支那音である。調べてゆけば総べての日本語は支那語から来ている。一々解説があったのだが、開いていた私は此頃のレプチヤ語起原説みたいな戸まどいを感じた。
”当市の宮武能太郎君はこの意見が一致しているので時々文通しているが、今度の来沢も会って話して見たかった”のが動機とかおっしゃる。
夫人と来ては、不細工な、ボリウムのある古女房然とした風体でいたく幻滅ものだったが、注視している中に、かぶさる様な額髪の下の目から知性が閃(原文では「仄」となっている)きたる様で、次第次第に不思議(原文では「儀」となっているが印刷ミスであろう)な深さを覚えて来る人だった。
澄んだ小さな声だつたが隅々までよく透った。内容はすつかり忘れてしまったが、話の途中に「主人が」「主人の研究では」と夫君を立てる様なかばう様な言葉が何度も出たことだけを覚えている。紫がかった、くすんだ茶のしぶい着物と対の羽織を召していた様に浮んで来るのだが。
講演がすんでから女師作法室で午餐会(早い夕飯だったかも知れない)をするから、希望があったら出る様にと竹沢先生の御言葉で出て見ることにする。
遅くいつたら、縁側を背に上座に坐った夫妻の横だけがあいている。仕方なく其処-夫人の横に坐る。
酒もなくみんな汁をすすっているのみで、話が一向はずまない。地の利を得た私が、若気の心臓から夫妻に話しかける。
-先生は此頃鉄幹というお名前をおつかいになりませんが
-此頃は本名を用いることにしています。
-先生のお名前はかんとおよみするのですか
-いやひろしです。菊地君もかんと読まれて困っている様です。
-どういうわけで鉄幹とおつけになったのですか。
-わけといって―これは私の先生(註・落合直文)がつけて下さったのです。
-どういう意味ですか。
-鉄幹とは梅のことなんです。
-奥さん、あんな名歌は物を見るなり口をついてすらすらと出てくるわけなんですか。
-いいえ、家へかえってじっと想を練ることが多うございます。
こんな愚問をかさねて、天与の好機を失ってしまう。
それから、どうしたはずみだつたか、談たまたま倶利伽羅合戦に及んで夫人が言われる。”玉葉には平家方の軍勢は十万はおろか八千そこそこだつたと記してあります。兵力でも源軍が優勢だったので平軍が浮足たったものでしょう。”
-玉葉引用の話はもつと詳しいものだったが。あとから図書刊行会の玉葉三冊にお目にかかったが、読む気も起こらなかったのは恥しい極みだ。
こつこつと古典を熟読しておいでる夫人の学殖の豊かさ、深さは今でも頭の下る思いがする。

参照資料:  「新鵜」第2号、昭和三十二年五月 新鵜発行所、p.39

                    

                    


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