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花の旅(武島羽衣)
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江戸さい子の歌集「にひしほ」と足跡
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花の旅
(「花の旅」は武島羽衣の作でガリ版刷りの非売品)
花 の 旅
武島羽衣
京のやど越路のかリ寝さく花に飽くや飽かずやいで心みむ
一、金 沢 市
金沢なる
江戸
女史の
彩雲会
、京都の大前河根氏の草川瑞穂会、又桑名の高井角倉氏の清渚会などの歌まとゐに列なりてなつかしき人々にも逢ひ所々の花も見はやさむとて、昭和廿九年四月九日夜九時半上野駅より列車北陸号にて出で立つ事にした。指定席に腰かけて、ふと窓外を見れば
彩雲会
の星野富美子の君のお顔がくつきりと目に映つた。遠路ふりはへて見送りに来給へるのであった。誠に嬉しく、発車にはまだ丗分の餘裕があれば車内に講じてこまこまと物語した。
長き旅越路とほくも行く君をつゝかなかれと只祈りつゝ
など詠みて給ふ。やがてゆるき出づる車のまにまに、君の姿の闇に消ゆるは心細けれど、
添へ給ふ君が心と相乗りて寂しくもあらず一人なれども
賜はりし飴など賞味つゝ眠らむと。
釦一つ推せば臥床の造られて家にあるごと静かに睡る
列車は次第に上信越線を進行した。
時々に叫ぶうまやの名によりて越路にすゝ程ぞしらるゝ
直江津駅に到着せし頃より、やゝ空は白みそめた。糸魚川にくれば夜は全く明け離れて、海ぞひの民家に霜のしろじろと置渡したるなどがくっきりと見えてきた。親しらずのあたり、渺漫たる大洋、風帆沙鳥の眺めもおもしろい。
東京よりは気候がやゝ寒きやう思はれた。
春なれど立山おろしすささびけむやゝ袖さむし霜の朝風
十日午前八時半、事なく金沢駅着。
江戸さい子
の君をはじめ、大坪外與子、亀田久子、松川艶子の君などあまた出迎へ給ふ。一々言の葉をかはす暇もなく、車にて下石引町なる
江戸
氏の新居に向つた。嫁君
久子
の君すこやかに玄関にて待ちうけ給ふ。去年のいたづきも癒えはてゝ、一段とすこやかにお見受けしたのは心からよろこばしい。吉田竹生の君始めとして彩雲会の君たち次々にお見えになり、新橋芳郷君も莞爾として姿を見せた。君、性着実篤行、今回もおのが
江戸
邸滞在中、いろいろと取りまかなって下されたのは感謝の至リである。
春の日永の、暮るゝには程ありとて
江戸
吉田大坪新橋の君たちと午後兼六園を見物した。こゝはわが喋々を待つ迄もなく、前田齋廣卿が設計し、松平楽翁公が命名した天下の名園、山あり岳あり、池あり流あり、飛瀑あり霊沢あり、亭樹あり山庵あり、一石一木も苟も作らず、千歳台の傍なる日本武尊の尊像は英姿颯爽、偉風あたりを拂ふものがある。この日 春風和喣、桜花乱発、ことに絶好の日曜日なれば、満市の人々ことごとく出でて遊ぶ。衣香扇影、雑沓織るが如くであった。帰り来れば輪島より徳野喜作君の来りて待つあり、皆々と膝をまじへて歓談盡くる期なく、眞心こめし
久子
の君の御馳走に盃の重なるも忘れて献酬にひと夜を更したのであった。
明くれば十一日、今日は加賀の千代尼の遺跡をたづねむとて、午前九時松原院長母堂貞子の君の好意にて、
さい子
竹生子母堂の君たちと同乗して、一路松任の町に向う。この日は天朗らかに気暖かく、一車、風に駕して飛ぶが如く坦々たる国道を疾走、快適の極みであった。途中伏見川を渡る程両岸の桜花なごりを止めて長堤十里紅雪梢を蔽ふかと疑はれた。
ひたばしり走る車の埃にもまぎれず匂ふ花の色かな
忽にして松任町中町なる聖興寺の門前に着いた。車のドーアをあくるより速く、小路静子の君、嫁君愛孫と倒るゝ如く走り来りて満面にゑみを湛へ、先生よくぞきませしと手を取るばかり喜んで迎へられた。君、天資純眞温淑、節を守り、兒を育て、常に己を空うして人に盡す。この度も己を迎ふるとて千代尼遺墨展示のこと、会衆接待の事など家事を擲ちて準備萬端遺憾ならしめたのは寔に感ずるに餘りがある。住職の好意によりて、千代尼が肉筆の数多の珍什に接し、千代尼研究上得る所が多かつたのは誠に忝じけなかった中に就き、百合の繪に
一筋に百合はうつぶく計りなり
と賛したのは書画ともに暢達よく婦人の美徳を諷諭し得て、余の最も感に堪へぬものであった。その外、朝顔の句など見るにも、
思ひ出の蔓に心はとられけり釣瓶よみたる句など見入リて
などそゞろに感ぜられた。この日会する者徳野氏新橋氏を始として多数に上った。展覧終つて千代尼の墓にまうで、句碑を読み記念の庵室などに昇り撮影などして徘徊去るに及びなかつたが再び寺に帰りて小路氏の心づくしの饗応をうけた。かへさには町の西部なる若宮八幡宮に詣でた。境内はひろびろとして鬱蒼たる松樹数をしらず、しかもこれが一夜のうちに繁茂したと言傳へられて一夜の森と呼ばれてゐる。再び車中の人となって金沢に向ふ。道の程思はずも立山の姿が雲際に現はれた。
、 珍らしき雪の立山人みなのまなこ集むる雪の立山
江戸
氏の邸に着いたのは午後五時頃であつた。ふと思い出でたるはおのれ金沢に来る毎に必ずいち逸く訪ひきます吉野美枝子の君の事であつた。この君のこたび見え給はぬはいともいぶかしと
江戸
氏に訊けば二ヶ月程前、病のため入院、手術を受けてなほ入院中なりとの答へに、しばし愕然としてゐたのであったが、その時吉野の君より文通あり、明日は院長より退院の許可あるべければ早速お伺ひ申すとの文意であつた。嬉しくはあつたがもし身体にさはる事など有りてはと
さい子
の君と案じあひつゝその夜は過したのであつた。
四月十二日はいよいよ歌会の日であつた。会場は尾山神社の社務所である。午前十時人々参集頗る盛会であつた。輪島市よりは能門政義、谷口源平氏も遠路参加せられて、会場も狭き程であつた。歌会に先だちおのれは『千代尼の句は我々に何を教ふるか』といふ題名にて、拙き講演を試みた。当日はあやにくに雨天であったから『雨中歌』を当座題とした。
桜花毎なほみて行かむ春雨の花の雫はそぼつともよし
尾山神社の社殿のうしろに昨年建てられた
江戸
氏の歌碑がある。
天地のおのづからなる聲きかむ人の世などは思ひ忘れて
尾山神社とその境内にある江戸さい子歌碑
(2010年9月20日、新詩撮影)
といふ歌である。女史の高遠の理想があらわれて長く君の名を傳ふるこ足ると思ふ。かくて神社を辞して
江戸
氏のもとに帰り、夕げなど終へたる頃、部屋に入りきませる婦人があつた。誰かと見ればあゝ吉野美枝子の君であつたのである。けふ退院したまひしばかりにてしかも雨を冒して音なひ給へるのであつた。容姿は少しもやつれ給はねど、何となく力なげに、手術療養のさまなどこまこまと語り給ふを聞くにいとほしさ身に沁みて、そゞろに涙がさしぐまれた。十分の静養をおすゝめして、
いとほしき君かうしろ手見守ると夜風に濡れて門にたゝずむ
など思ひつゝお別れするのであつた。
翌十四日はいよいよ金沢を離るゝ日となった。これ迄金沢に来る毎に帰るさは輪島温泉に入浴するが常であつたが、今年は方面を変へて片山津温泉に行きてはとのかねてよりの
江戸
ぬしの勤めにて、さらばと吉田竹生、大坪外與子、渡邊初雄、新保千代子の君たちと金沢駅より汽車に乗る。
江戸
氏のすまひを離るゝ程
久子
の君と別るゝのがいともいともなごり惜しい。おのが滞在中あさげゆふげの料理にもわがロに適ふやうもやと美供佳設、至らざる事なくもてなし下されしよとくりかへしお礼をのべて別を告げたのであつた。車の松任駅に着いた時小路静子の君愛孫を抱きあげつゝ嫁の君と見送られた。窓に投げ入れられた紙片を見れば
彩雲の花のかをりて千代尼嫁うれしくまみゆ羽衣の君
みけしきの健やかなれと祈りつゝ又も迎へむ日こそ待たるれ
などの歌がよまれてあり、君が満腔の親切熟成に強く胸を打たるゝのであった。動橋(いぶりばし)に着きしは午前十時、小松支部の久壱井きた子の君、よろづ斡旋の労をとられて片山津第一の旅館矢田屋に案内せられた。われわれの通された座敷はこの家の別館湖月といふ心名の広間で、前には白山山脈と柴山潟とを一眸のうちに収めて、眺望絶佳胸次の豁然たるものがあつた。細雨の瀟々たる水面に鳰の出没するさま幽趣横生、言の葉に述べやうもなかつた。
片山津今朝より烟るはるさめに鳰の影さへ見えわかずして
直に一浴を試みるに、温泉清洌、滾々として湯桁に溢れ爽快言はむ方もない。
はるばると思ひこし路の片山津いで湯あみつゝ心足らヘリ
ここちよくいで湯あふれて柴山湖しばしば浴めどあきたらぬかな
珍味佳肴の晩餐をはりて皆々うちとけてむつ物語す。とよ子の君のはやり歌、その外の君たちの謡曲などの餘興もいでたのでおのれもお笑ひなど一席伺はうかと思つたが夜もやうやう更くればとて一同寝に就いたのである。
片山津いでゆの宿にひと夜寝てまどかに結ぶ暖き夢
矢田の野に匂ふ六もとの女郎花まるもやさし尾花一もと
出づる湯のあつき情の人々に別れむことのかた山津かな
翌朝おのれは西に京都に向ひ、人々は東に金沢に帰らむとするに、なごりをしさは名状すべくもなかつた。車のゆるぎ出づるに渡辺、新保の君など追ひかくるやうに走り来つて姿の消ゆるまで見送つて下さつたのも忘れがたかつた。
今ひと日出で湯をあみこて片山津かたみになどか語らざりけむ
二、京 都 市
動橋(いぶりばし)を離れて、大聖寺に、山中山代の温泉をしのび、福井武生をすぎて、今庄に黒麦の味ひをめづる程汽車はいつしか敦賀米原をへて山科トンネルもくゞれば、東寺の塔は雲際に見えがくれして、速くも午後二時廿分といふに京都駅に着いたのである。思ひもかけぬ
彩雲会
の岸馨子の君の、令嬢と二人して出で迎へられたるに、必すと思ひし瑞穂会の利根東山君などの顔の見えぬはいといぶかしく止むく岸氏とお別馴れして直ちに北白川の河根邸に車を走す。河根氏の奥様も、どうしてお姿を見はぐらしたのでございましやう、まづお上り遊ばされよと、お手前のおもてなしに預つてゐる程、やつと河根氏帰り来られて、お互に不思議々々々と言ひかはすばかりであつた。
顔と顔見つけざりしいぶかしきわが目人の目ありきたがひて
河根家の庭園は山を帯びて苔走い樹密に、奇花珍草春秋の眺めをたやさず。かけ樋の音なひ、燈籠のたちど幽邃の趣向に深きものがある。今年より詩仙堂に倣ひて、庭かげに添水(そうづ)を懸けられたのは一般のさびを添へ得た感がする。
鹿ならぬわが心まて驚きぬゆくりなく聞く庭の添(そ)うづに
浴後丹前に着替へて、いつにかわらぬ厚き夫人のあるじ設けに主人の君と清酌す。陶然たるここちに歌を詠じ書を論じてそゞろに夜のふくるも知らなかつた。
翌十五日は歌会の日である。第一陣に見えた大前大人と久𤄃の情を述べてゐる程に二陣三陣とつぎつぎに会員集り来つて盛会を極めたのであつた。前月の詠草を批評し当座題『春眺望』の作品を披露し又万葉集の講話などあつて薄暮散会した。おのれは
東山清水寺のおばしまに柳桜の京の町見る
と詠じたのである。
つゞきて十六日も有志の会員大前先生を始め、木村信子、浅野聖子、柴原賴枝、吉本信子の君たちなど寄りつどつて、詠歌に雑誌に質疑に又持ちよりし銘菓の品評などして、たのしくなごやかな一日を過した。笹巻という菓子味ひことに清楚であつた。
笹巻の些々たる菓子と思ひしにあんに相違の味ひにして
駿河屋の羊羹はすでに定評がある。
名物に人するがやのこの甘味ようかんがへて食むべかリけり
更に信子夫人がお手製の田舎汁粉まことにこよなき味であつた。
味ふにあまりありけり甘党と我をしるこの君か情は
おのれ常に思ふ崇高と優美と滑稽とは天然の三大美であるがひとり滑稽の美に至っては之を軽視する者が甚だ多い。けれども、滑稽も大切で之を味ふことの出来るのはひとり人間のみであるから、われわれはこの滑稽美を理解するカがなくてはならぬ。この意味に於て私は、時に臨んで狂歌を詠む事を人にも勤むるのである。けふを限りと思へば人々立ちわかれ難く餘興として河根君は二筋の紐やコツプの墨などの奇術を見せた。手先のあざやかさ其道の人とたゝへても恥しくない。
末遂に歌は手品と化けにけりみそ人文字も二筋の紐
我も扇子の藝当などして賑はしき笑聲裡にこの日のまとゐも終わつたのであつた。
十七日は、いよいよ桑名に向はむとて京都を別るゝ日であつた。河根氏に送られて京都駅に来ればはや龍岡、木村、浅野、東山の諸氏のお顔が見え揃つてゐた。午前九時半の『つばめ』に乗るや、一分間の停車なれば又来む年をちぎるいとまもなく車は直ちにゆるぎだした。なごりをしさはいふべくもない。
見送りの人の姿の豆のごとなる迄窓をおろしかねつゝ
三.桑 名 市
別れに臨んで河根君の、わが外套のポッケットにしのばせ給ひしウイスキーを口にすれば美醸萬身いつしかうとうととなつたと思ふと汽車はすでに名古屋駅に着してぬた。出で迎へ給へる高井善成、角倉家茂、栗山富美子の諸君と駅の地下なるキリンビールの喫茶店に小憩した。晝下りのむしあつさ、ジヨッキーより溢るゝ生ビールの味は爽快いはむ方なきものがあつた。それより打連れて桑原利作氏をとぶらはむとて関西線に乗り替へ、富田浜駅に下車して海岸第一の眺望を占めたる霞洋館に投宿した。しばしありて利作君の令息理一郎君に迎へられてこゝよりやゝ離れたる桑原氏の別業にゆく。初対面の利作翁と歌道につきての歡談数刻、再び霞洋館に帰り来り、浴後、高井角倉桑原の三君と献酬に時を移し、あすの歌会の打合せなどしてお別れした。翌朝の出立は時刻早いかるべしとて、かねての依頼の揮毫ものなど、燈下にしたゝめて寝に就いた。濤聲断続、おのづから夢の国にさそわれて行くのであつた。
明けて十八日はいよいよ清渚会の大会を経て東京に帰るべき日である。朝、高井、角倉両氏と同乗して前国会議員水谷昇氏を桑名江場に訪問した。君の邸、階上より眺むれば一望果てなく菜の花紫雲英の花咲きつらなりて一大花氈を布くが如く、何ともいへぬ美しさである。
伊勢の海につゞく菜畠げんげ畑ひと目にみえつおばしまのもと
小憩のゝち同氏と事を同うして当日の清渚会の会場なる揖斐川河聯の山月亭に着いたのはちょうど晝頃であつた。この清渚会や始め桑の実会と名のり、のちに時雨会といひ、更に今の名に改つたが明治の末年より結成せられて数十年の歴史を持てる珍しき会合である。そのかみこの会に列なりし時、
蛤のふたゝび三度来ても見む伊勢の桑名の名ぐわしき里
など詠じて、しばしば来遊して会友の諸君と親みを重ぬる事になったのである。開会にあたり高井君がまづ歡迎の辞を述べ次いで私のさゝやか講話、さらに兼題の批評、当座の披露三才の作者に賞品など贈りて和気藹々盛会裡に会が閉ぢられた。それより、有志の会員居残りて、歡迎をかねたる晩餐会をひらく。
しとしととふる細雨のうち、洋々として流るゝ揖斐の大江をへだてゝ、伊勢尾張の連山はやうやうに暮靄につゝまれゆくに點々としてともし火のきらめく伊勢大橋は恰も蛟龍の横たはり臥す観がある。この大観を前に心暢む神ゆたかに、一扚一詠、歡つくるところも知らなかつたのであるが発車の時刻も逼ればとて、諸君となごりをしき袂を別ち桑名駅に来りて乗車せしは午後十時二十分であつた。水谷、高井、角倉の諸氏をはじめとして栗山の富美子の君、又関口澄江母堂と御主人とふりはへて遠路見おくりに来られたのであつた。
はやかれと願ふ事のこよひのみ動かずあれと思はるゝかな
など思ふまもなく車は別れかねた我等の心をつれなくも引き裂いて動き出したのであつた。関口氏の令息鉄彌君は試験休みも過ぎて東京の上智大学に帰るべければとてわれを見おくりかたがた東京駅まで同乗せられた。しかし、わが手荷物の多さをいとほしがつて、更に練馬なるわが寓居まで同行せられたのは深く感謝するところであつた。かくて十日間の花の旅もたのしく終り、ホット一息馴れし文机に打向へば、驚くべし、
返り言書くべき文は山なせり歌の直しも嶺とつもりて
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