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間島磐雄が江戸さい子宛に出した手紙
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明治20(1887)年3月2日に香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町の金刀比羅宮(ことひらぐう)の神職の子として生まれ、伊勢の神宮皇学館高等部で学んだあと上京し、明星派歌人と交り「琴山」(きんざん)の号で短歌の勉強をする傍ら、短歌朗吟基本 間島式 日本歌道披講形を編み出し、後に深川富岡八幡宮の権宮司となったのが、間島磐雄(昭和48年(1973)8月17日没)であり、この手紙では七尾市にある与謝野晶子歌碑の除幕式(十一月三日に開催)での歌
家々に珊瑚の色の格子たつ能登の七尾のみそぎ川かな
の朗詠を間島磐雄の代わりに江戸さい子にするよう要請している。
琴平の金刀比羅宮(ことひらぐう)は、一般には「讃岐(さぬき)の金毘羅(こんぴら)さん」と呼ばれて有名である。

この手紙によれば、江戸さい子は大病の後故七尾市で開かれた晶子歌碑の除幕式での歌の朗詠はできなかったようである。


この手紙でも、間島磐雄は江戸さい子に再度七尾市で晶子歌碑の朗詠を勧めている。



昭和33年4月13日(日)に七尾市で開かれた与謝野晶子歌碑の除幕式での写真
江戸さい子はこの日も大病後の体調不良で結局歌の朗詠はできず深川富岡八幡宮権宮司間島磐雄が晶子の歌碑の前で晶子の歌を朗詠したようである。 |
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