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冬柏
(「冬柏」は新詩社が「明星」の後継誌として昭和5年3月に創刊した歌誌)
冬柏 第六巻 第九号(昭和10年9月28日発行)裏表紙(江戸さい子夫人が書きたる觀音經と晶子夫人)ならびに最終頁(新誌社短歌會規定)
冬柏 第二巻 第二号(昭和6年1月25日発行)p.130
雜木の雪
江戸さい子
うす墨に一つなりしも雪晴れて空と山との色わかれゆく(以下與謝野兩先生と蘆原にて)
なつかしや蘆原(あはら)の宿の雪の朝指にも淡(あわ)き湯の香こそすれ
雜木よりこぼるる雪も聲立てて羽羽たく鳥のけしきなるかな
北ぐにの冬に牡丹を生けし宿ながき廊より湯の香り來る
相ならぷ人のすべてをなつかしむ心となりぬ歌おもふ日は
内にして煙草のけむりたゆたへり窓を壓(おさ)へて雪のつもれば
浸るとき溢(あふ)れて鳴れる湯の音も雪の夜明にこころよきかな
鐘の音も凍れる山のしら雪を軒にしながら坐る僧たち
この奥にあまたの不思議ありと云ふ扉ひらかじ謎の繪も見じ
わがねがひ思ひ斷えてもありつれど時の移りてよみがへるかな
竹立てる窓にして聽くうぐひすを琅玕の鳴る音にたとへん
わがこころ矢にあらねども的(まと)なきに放つことのみくり返すかな
炭をもて目とする辻の雪だるま融けぎはとなり身さへ黑めり
人すべて新しき世へ歩み去る鄙の伏屋に我れはこもれど
北ぐにに二十とせありてなつかしき人と雪とに親めるわれ
美くしき日の覗くとき木の間なる雪も俄かにしら絹を展ぶ
湯の宿の朝のこころとこころ融けあへば寒しと思ふ何物も無し
古瓦(ふるがはら)雪解の後の庭に見ゆいつの嵐に落ちしとも無く
冬柏 第二巻 第二号(昭和6年1月25日発行)p.167
消息
○ 私共は久しい以前からー度北陸の雪景を觀に行きたいと願ってゐて果さなかつたが、去年十一月の下旬、金澤出身の洋畫家、堀忠義君に其事を話したのが動機となり、斷然と思いひ立つて、堀君を東道の主人とし、田中悌六君の同行を求めて、相共に舊臘三十日の夜汽車で、上野を出發した。寒い夜に掛具芳男、福田氏御夫婦、鈴木吉良、兼藤紀子の諸子が驛へ見送られた。軽井澤以北の驛驛には雪を見受けた。三十一日の早天に三日市で下車し、小雪の降る中を電車に乘換へて、五十分後に宇奈月溫泉の延對寺別館に投じた。越中國黑部溪谷の入口にある溫泉で、宿は黑部川に臨み、川を纔かに隔てて雪の山が浴室の大硝子窓を壓してゐる。廣い座敷が多いのでスキイヤアが集ってゐても静かであり、主婦も女中達も親切である。ことに正月を迎へて二泊したが、二日の朝は前夜からの風雨が一尺の雪を融かして山が鹿子斑(かのこまだら)になり、スキイヤア達を失望させた。此日から變態的な温かい日が繼いた。午後の汽車で夕方金澤へ著くと多くの人人が驛へ出迎へられたので恐縮した。すべて初識の紳士夫人である。驛前の金澤ホテルに投じ、人人と語って夜を更かした。今夜三田會の長谷新一郎君と北陸女學校の
江戸さい子夫人
とが、加賀に於ける明日以後の遊賞の日程を作つてくれられた。三日は午前に市の助役市川潔氏御夫婦、第一高等女學校長松宮助之丞、縣立工業學校長山脇雄吉、
江戸夫人
、長谷新一郎諸氏の御案内で舊藩時代よりの名園「兼六公園」を隈なく鑑賞し、犀川に臨む旗亭鍔甚で市川山脇兩氏より午餐の饗を受けて色色のお話を聞き、午後の汽車で能登の和倉溫泉に著いて銀水閣に泊つた。今夜は折折海上に月を見、翌四日の曙光も美くしかつたが、二泊して五日の朝出發する時は雨となつた。自動車で雨中の七尾町を一見し、汽車で再び金澤に下車し、ホテルで午餐を取った後、また汽車に乘って動橋(いぶりはし)驛で下車し、一里に足らぬ片山津温泉の矢田屋に投じた。柴山潟と云ふ小湖水に臨んだ溫泉地である。和倉の宿も此宿も水郷の景勝を占めて、しかも彼れは海、これは湖の別趣がある。和倉では隣室の大阪人の一團に悩まされたが、此宿は客が多いに關らず、主人が氣を利かせて特に靜かなよい部屋を開けて歡待された。一泊して翌六日の朝に附近の海岸へ出て松原の中の實盛塚を一拜し、午後は自動車で小雪の降る中を山代溫泉に向ひ、吉野屋に投じた。主人は北陸で我我が唯一の面交ある人である。一家を擧げて歡待せられる。早速丸谷焼の竈元須田菁華氏の家を訪うて珍藏の古九谷の逸品數十種を觀せて貰つた。翌七日は朝小雪の中に自動車で山中溫泉を一巡して引返し、更に郡谷寺を訪うた。住職の洞仙老子は待受けて、侍僧に山内の諸堂と景勝とを案内させ、書院で此寺の和尚で江戸末期の歌人善寧師の歌集や上杉謙信遺品の琴其他を觀せられ、また爐の用意ある一室に引いて酒と雜煮餅とを饗せられた。老師は吉野屋主人の伯父君であるが、話して見ると寛の長兄と親友でもある。師は筆を執って「尋ねこし君がためとて此冬は山の楓(かへで)も雪をとどめず」と云ふ一首を示された。ここで同行の吉野屋主人が携へられた重詰を午餐として開き、其れより動橋驛に出て汽車に乗り、金津驛で乘換へて三國驛に著くと、今度金澤で知った
江戸夫人
の良君
江戸肇氏
が待受けられ、自動車て三國神社を一拜して、海岸東尋坊の奇勝を觀、引返して町に入ると、意外にも町長田中喜三郎氏の主催で九頭龍川の河口に臨む開明樓に一行を招かれ、濃畑三郎、後藤弘、窪田宗之、森田三郎右衛門、三好得惠、三家茂松、
江戸肇
其他の諸氏と晩餐を共にし、席上を斡旋する藝妓の三国踊をも觀せられるのであつた。今夜再び山代溫泉に歸リ、深更まで九谷焼に我我は歌を、堀君は繪を書いた。翌八日はまたまた金澤に引返し、午後は米山坂崎兩夫人、磯部宗右衛門氏と市外の大乘寺に宗源老師を訪ひ、夜は旗亭望月で米山久子、駒井静子兩夫人の饗を受けた。夜は旗亭望月で米山久子、駒井静子兩夫人の饗を受けた。兩夫人は金澤に於ける若くて聰慧な知識婦人で、歌を詠まれると共に婦選運動などにも率先してカを致され、殊に米山夫人は禪の修養に於て宗源老子の弟子である。翌九日の午後は女子師範學校の講堂で市内各女學校の學生達に両人で講話し、次いで米山夫人等の主催に由る歡迎の茶話會が同校の一室で開かれ、校長靈田壽雄、第四高等學校の鴻巢盛廣其他の諸先生や商業會議所議員安井音吉氏、また幾多の婦人令嬢達とお話を共にし、終つて晶子は放迭局に赴いて談話を放送し、寛はホテルで來訪の大友佐一、磯部宗右衛門、紺谷圓作外諸君と語つた。此日までは比較的溫和な気候が續いて居たが、此の夜半から北海の嵐が吹雪をもたらし、次第に猛烈となって行つた。翌十日の午前は隱れたる國語學者宮武能太郎先生に大友氏の紹介でお目にかかり、方言や語源について少時お話を共にし、其れより商品陳列所に青木先生を訪うて古九谷の参考品と守景の屏風耕作圖等の眼福を許され、次いで圖書館に中田先生を訪うて藩政時代の舊記の一部を觀せて頂いたが、辭する頃は既に雪は一尺い及び、自動車は屢動かなかつた。今夜三田會の主催で市の重立ちたる人人から仙寶亭で晩餐のの饗を受けた。翌十一日は午前に多數の人人の懇切なお見送を受けて金澤を辭し、福井に向つた。金澤ホテルは歐洲の小都會に見るやうな家族的な落附と親切のあるよい宿であり、設備もサアビスも行届いてゐるのは主人安井音吉氏の人格の反映であらう。聞けば安井氏は羽二重問屋を本業とし、餘カを以て採算を主とせず此ホテルを經營してゐられると云う事である。福井驛には南部華子夫人と其他の婦人達や三田會の人人が出迎へられ、驛より近い「だるま屋」の階上で小憩し、夫人達と午餐を共にした後、一行の内、堀田中兩君、金澤から送つて來られた
江戸夫人
と畫家の八田氏、東京から八日に金澤へ來られお福光美規氏等は、此地の齋藤良子夫人と共に直接今夜の宿である蘆原溫泉へ電車で行き、我我夫婦は南部、坪川、駒谷三夫人の御案内で市内を一巡し、其れより永平寺行の電車に乗つた。終点から永平寺まで五六町の距離ながら、山が迫つて雪が二尺を越え、人通りが全く絶えてゐる中を、洋装の南部夫人の熱心と勇敢とに滿ちた先導に勵まされて、多少逡巡の色を見せながらも徒歩して進んだ。寺の壮大な近代式建築は俗臭が多くて那谷寺や大乘寺を見た我我に感心しないが、附近の山の雪景が心を澄ませるに十分であつた。歸路も同じく雪を踏み、電車に乘つて金津驛で乘換へ、蘆原驛へ來ると、また思ひ掛けなく、三國から來られた
江戸肇氏
が待ち迎へられて居た。雪は此地も一昨日から降りつづいてゐる。蘆原の宿の開花亭旅館は廣大な建築で庭園もまた法外に廣い。主婦の厚意で多勢が各室に分れ、我我は特に靜かなよい座敷に落附いた。齋藤、坪川、駒谷三夫人は南部夫人を留めて福井へ歸られたが、縣の衛生課にこゐられる南部夫人の良君は此の近郷を巡視中であつたので、今夜はここに來宿せられた。宇奈月以降歌を詠んでゐる我我に、今夜から
江戸夫人
を加へて詠むのであつた。
夫人
は晶子と同じく和泉の堺に生れた人で、晶子と同じ女學校を數年遅れて卒業され、久しく金澤に在つて國語の教鞭を女學校に取られると共に歌をも詠まれてゐる。相知つたのは此度が初めながら、晶子と同郷の懐舊談を共にしつつ、なつかしさに此地へまでも送つて來られたのである。その御縁故で良君の
肇氏
からも三國以来多大の御厚意を受けた。翌十二日は朝早く南部夫人が福井へ歸られ、夕方から我我と
江戸氏御夫婦
及び堀君とが福井の「だるま屋」で催された市の婦人會や三田會其他の歡迎會に赴き、人人とお話を共にした後、深夜の電車でまた蘆原に歸つた。翌十三日には雪が止んだ。早天に立つて福井驛で南部夫人其他の鄭重なお見送を受け、
江戸氏御夫婦
、八田氏等にも別れて米原に向つた。南部夫人の良君は次の武生驛まで同乘東して見送られた。福光氏は長濱驛で下車され、我我四人が午後名古屋驛に著くと本美鐵三君が待ち受けて、直ちに市の東端の八勝園に案内された。そこで夜に入るまで語つて、また汽車に乘り、翌十四日の未明に東京へ歸つた。この半月の旅行で我我は初めて北陸の自然に親み得たのみならず、金澤福井兩市を初め各地の諸君から、酷寒の季節に關らず送迎せられて多大の御配慮と御恩情とを受けた事は、出發前に餘期しなかつた幸ひであつた。歸來眼前の事に忙殺されて一一御禮状も書くいとまも無い。甚だ略儀ながら此の誌上から北陸各地の諸兄姉に我我の感謝を申述べると共に、寒威の層一層酷烈にならうとする時、諸君の深重な御自愛を祈つて置く。(寛・晶子)
冬柏 第二巻 第十二号付録(昭和5年12月~同6年11月合本)(昭和6年11月25日発行)p.297
折折の歌
江戸さい子
心ふと岐路に立つかなよき方を何れと知りて我れの行かまし
棚の瓶(かめ)うす氷してあはれにもひともと咲きぬ水仙の花
木末よりしばしば落ちて我傘に雪けぶりする朝の路かな
大鳥が白きつばさをひろげたる形に残る木の奥の雪
空晴れて島と岬の向ひたる三里の入江朝の潮滿つ
母として云ふ甲斐もなきみづからを悲むこころ水のごと湧く
我れ呼びて壁のなかにもかすかなる聲ある如し心澄まさん
雲のごとまた水のごとおのづから行き過ぐる人追うべくも無し
たはむれて明るく笑ふことも無し春の光を忘れたる人
冬柏 第二巻 第十二号付録(昭和5年12月~同6年11月合本)(昭和6年11月25日発行)p.458
落椿
江戸さい子
横たはる小川の上の竹ぎれに紅くとどまる落椿かな
十とせ經てうれしく逢へる人のこゑ別れし後もふと耳に聽く
よるペなき雲にも似たるわが身かな風に追はれて廣き野を行く
路に臥すはかなき草もわれ踏まじこれだに神のみ心ならん
はるかにも松にまじりて桃さきぬ七塚の野につづく沙山
己がことすべて拙しかくて猶ねがへることは世の外の幸(さち)
人の世の荒きを行けどつまづかす何のカぞ我れに添へるは
ふくよかに三尺盛れる土のなか喝活(うど)うらやまし世の風を避く
苗代のみどりのなかに蛙なき澄みたる水もすでに初夏
冬柏 第二巻 第十二号付録(昭和5年12月~同6年11月合本)(昭和6年11月25日発行)p.613
路上
江戸さい子
身もかろく衣がへして花柑子(はなかうじ)かをれる朝の路を行くかな
濱寺を訪ふいとま無し津の國にひと夜とどまる旅の身なれば
こころよく踏みゆるがせて夕風と共に手取の吊橋を行く(以下手取川の上流にて)
水早き川の吊橋踏みゆけばうづまく如し岸の青葉も
すゑものの土採る人も夏木立しげれば見えず鳥越の山く
いささ川きよきをあまた井の水に代へて引きたる山かげの家
ひろ庭の杉もけやきもこの家と共に古りたるよき姿かな
雪の日の出入りの口を藁ぶきの二階の屋根に置ける高窓(たかまど)
籠にして鳴かぬ河鹿のあはれなりもとの清瀨の水に放たん
冬柏 第二巻 第十二号付録(昭和5年12月~同6年11月合本)(昭和6年11月25日発行)p.794
北陸遊草
江戸さい子
庄川や神わざならで後の世もくづれぬ堰(せき)を人の築きぬ(以下越中の庄川にて)
いく度も山をめぐりて我舟の上れば長し庄川の水
飛驒ざかひ近くなるまで初秋の風と人とを乘せて行く舟
庄川の水にひたれる木立みな枝白けたり海苔麁朶のごと
洞門を入ればうなじに一しづく落ちて冷たし奥山の露
橋過ぎて下(した)の湯谷に行く人の影見えぬまで葛の花さく
炭竈のけぶり二すぢ山に立ち秋のうぐひす渓かげに鳴く
山のかげうつれば青し湯ぶねより溢れて廣く流れたる湯も
大口の瀨戸を出づれば外浦(そとうら)に立つ潮荒く我船を搖る(以下能登にて)
静かにも初秋の波みどりしぬ珠洲(すず)の岬にちかき海原
夕ばえの光のなかに九十九(つくも)より和倉をさしてわたる我船
小螺(しただみ)を机の島に我れも採る目豆兒(めづこ)の刀自の歌思ひつつ
籠(こ)にあまるしただみ得たり机島ゆきて飽かざる清きなぎさに
島に來て硯の岩の水見れば歌はんこころ我れも起りぬ
今日訪へる標(しるし)を島に立つるとてみづから槌を打ちぬ船長
瓜食める人をめぐりて机島すずしき風に藻の香こそすれ
遠く見て能登のしら濱鶴(たづ)が濱名を思ふだに清げなるかな(以上)
秋の寺書院の前の松閒よりさせる日を見て食みぬ枝豆
しづかなる秋の花園さく萩にしたしむものは蝶とあるじと
冬柏 第四巻 第一号附録(昭和6年12月~同7年11月合本)(昭和7年11月25日発行)p.188
金澤より
江戸さい子
埋れて我れ朽ちなんや石にさへ生ひて花さく草もこそあれ
伏木(ふしき)より寄る船待ちて氷見(ひみ)の浦出づれば嬉し雲さへも晴る(以下四首越中の旅に)
波にある網の浮木を避けんとて小き笛吹く越(こし)の船人
燈臺の灯を横ぎりて亂れたる千鳥うつくし氷見の夕暮
石ぶみを山に見るかな家持(やかもち)が若くてここに歌ひたるあと
まろうどに屠蘇つぐごとし大方は旅なる夫子(せこ)と年を祝へば
年の朝屠蘇まゐらせて嬉しくも八十路の母に申す祝ぎ言
初春の北に雪無し蕗の芽と若き根芹を出でて摘むかな
猿まはしまたおとづれて初春の家のどかなり母と爐に倚る
冬柏 第五巻 第二号付録(昭和8年1月~同8年12月合本)(昭和8年11月28日発行)p.960 (冬柏 第四巻 第十二号の裏表紙の写真に相当)
兼六公園の寫眞は向つて右より安井音吉、江戸さい子、私、市川夫人、後方に寛、中島、坂野、渡邊三夫人です。(以上晶子再記)
冬柏 第五巻 第二号付録(昭和8年1月~同8年12月合本)(昭和8年11月28日発行)p.1032(冬柏 第四巻 第十二号の記事に相当)
師を迎へて(一)
江戸さい子
師を待ちて先づ歌の座をしつらひぬ紅葉のもとの園の水亭(すゐてい)
師のために讀みます經を我れも聞く紫錦(しきん)の台の秋の大寺
宗達の墓ある森へ香焚きて禪師先だち行き給ふかな
守宇多須山大人(うし)と夫人の來たまへぼ河北の潟も秋に光りぬ
前の山みな紅葉してその奥の醫王の峰にうす雪を置く
紅葉する宇多須山より見る海に虹の立てるも秋のよろこび
師と共に拾へば樂し靜かなる曉雲亭の柹のもみぢも
那谷寺(なたでら)の岩山もみぢ行く方に人を留めて秋の日に照る
この秋の那谷(なた)の紅葉のいろ濃きは今日訪ひたまふ師等を待ちけん
那谷の山もみぢする日は護摩堂の色褪(あ)せたるも誰れか思はん
み寺なる謙信の琴歌びとの來ませる今日は秋風に鳴れ
紅葉して秋のひかりを滿たしたり那谷の御山(みやま)の谷の片はし
紅葉する日もなほ暗し岩山の洞(ほら)にまします觀音の御座(みざ)
師の大人のいませる那谷へ串(くし)の友病む身を忘れ車して來ぬ
惜めども時の來ぬれぼ申すこと残れるままに師をば見送る
今はとて加賀を立ちます旅の師に奉るもの眞心をのみ
師のくるま路に二たび行き逢へるその喜びも束の閒のこと
行く水も浮ぶ紅葉も今日見れば師のおんあとを追う如きかな
わがこころ絃(いと)を張れども彈かざれば何の音をも立てぬ古琴(ふるごと)
冬柏 第五巻 第二号付録(昭和8年1月~同8年12月合本)(昭和8年11月28日発行)p.1064(冬柏 第四巻 第十二号の消息記事に相当)
消息
○ 自分達夫婦は、かねてから一度黑部峡谷を初め北陸諸縣の秋を觀賞したいと思って居たが、その諸縣に於ける既知未知の雅友の厚意に由って、此秋にその宿願を果すことが出來た。詳しい紀行を書く暇が今無いから、玆に概略を叙して置く。即ち十月三十一日の夜汽車で上野を立つた。驛へは近江氏御夫妻、辻春緒、鈴木吉良、掘忠義、鈴木赳武の諸氏が見送られた。十一月一日の拂曉富山縣の三日市驛に著くと、宮下氏が富山市から、中田金森二氏が高岡市から、共に前夜より來て待受けられて居たのは意外であり、甚だ恐組した。宇奈月行の電車に乘換へ、途中の驛で宮下氏は下車し、他は宇奈月溫泉に著いて延對寺別館に投じた。中田金森二氏は前日一度この宿に來て、自分達のために閒静な一室を選定して置かれたのである。宿は一昨年の元旦を田中悌六堀忠義二君とここに迎へたので、主婦も自分達を記憶して居た。一浴の後、トロを改造した電車に乘つて黑部の溪に入つた。中田金森二氏の外に野田定作氏が同行して案内せられた。廿餘の洞門を出入し、綠玉色の水と、灰白の奇巌と、其れに掩映する高樹雜木の霜葉の丹紅朱黄とを望んで、無限に展開する峽谷の美觀は豫想以上であつた。加ふるに此の地方に於ける稀有の好晴で、山上の何れにも一碧の空があり、樹閒には日光を入れて紅葉の色を飽迄も鮮明にし、風無くして溫暖に過ぐる程の気候であつた。鐘釣溫泉に到って下車し、溪底(たにぞこ)にある洞中の溫泉に向ふ途中、自はたまたま右の頣を虻に刺され、引返して屋上の旗亭に小憩する閒に、金森氏がアンモニヤを旗亭に求めて數回塗抹せられたので大に疼痛を緩和したが、浮腫と微痛とは翌朝にまで及んだ。午後から宿で妻と歌を詠み初めた。深夜に至って雨となつたので、今日の好晴に峡谷へ往復したことの幸ひを喜んだ。翌二日は猶歌を詠んで滞在した。
----- 中略 -----
翌六日は午前に高岡高等女學校で講演し、終つて午餐の饗を學校で受けた。午後、別れに臨んでまた山口、小川、其他の諸君が旅館の別座敷に小宴を設け歡談を共にせられ、驛頭へは昨日來の諸友が多く見送られた。なほ中田氏は金澤まで同行せられた。金澤は再遊の地である。驛へは宮武能太郎、堀忠勇御夫妻、安井音吉、
江戸さい子
、中島千代子、松村長五郎、其他の諸君が出迎へられた。安宅町から特に來られた松村氏の外は、すべて相識の閒柄であるだけ、親戚に逢ふやうななつかしさで、特に妻に取つては氣を置く所が少ないらしく見えた。投宿した驛前の金澤ホテルもなじみであり、主人の安井氏は我我の心持を知って居て我儘を寛容せられた。今夜の訪客に中島千代子夫人の御良人(石川縣師範學校長)があり、また能美郡の友人麥谷亞星君の夫人もあった。また來遊中である京都の猪熊信男氏が越中に赴く自動車をホテルの前に留めて久濶を叙べられたのは奇遇であつた。翌七日は微雨の中に、安井氏
江戸夫人
と共に兼六公園の紅葉を觀、圖書館、商品陳列所等を訪ひ、公園に引返して池畔の茶亭に待受けられた市川、
江戸
、渡邊、坂野、中島各夫人より抹茶の饗を受けた。圖書館では昨日まで催された神紙展覧會の出品の一部を館長から觀ることを許されたのは意外の幸ひであつた。茶亭を辭して紫錦䑓の寶圓寺を訪ふと.雪巌老師が待受けられ、特に佛前に於て我我夫婦の旅中安康、同行諸氏の息災を祈つて讀經せられ、次いで寺内にある宗達の墓に案内して讀經せられた。それより向ひ山一名字多須山に登って遠望し、山麓の油木にある月心寺を訪ふと、寺内の曉雲亭に茶人谷村啓吉氏が特に待受けて茶を饗せられた。かくして宿に歸つて午餐を喫したのは午後二時であつた。次いで三時から教育會館で兩人が講演し、今夜は中島、
江戸
、中島氏令嬢と歌を詠み且つ揮毫して午前二時に及んだ。翌八日は午前八時半に宮武先生、
江戸夫人
、柴氏と同乘して師範學校に赴き、兩人で講演を終つて後、中島校長御夫婦より旗亭本閒に於て午餐の饗を受け、午後一時四十分の汽車で安宅町に向つた。金澤驛へは市川、渡邊、坂野、
江戸
、中島各夫人、宮武、厚見正秀、中島、安井、柴其他の諸氏が見送られた。中に柴氏は富山麟新湊より來て、高岡以來同宿同行して随從せられたのである。安宅町へは金澤より大友佐市氏が特に同行せられた。小松驛に下車すると、松村長五郎氏の外、町長圓地與四郎外諸氏が出迎へられ、自動車に分乘して松村氏の邸に投宿した。ここで松村夫人、令嗣御夫婦其他にお目に掛かつた。松村氏の四男は文化學院美術部の在學生として我我の知る中であるが、その緣故で、特に松村氏が我我を招いて安宅の風景を觀せられたのである。小憩の後、町外れの安宅川を渡り、沙丘の松かげにある安宅神社を拜し、祠後の安宅の關址を觀、また前の海邊を晩照の下に逍遙し、社務所で社司北村安彦氏より茶菓の接待を受けた。今夜は松村氏の邸で主人御夫婦、圓地、北村、大友其他の諸氏と語り、且つ妻と共に歌を詠んだ。翌九日は午前に揮毫し、松村氏外諸君に別れて、大友氏と那谷(なた)に向ふ途上、たまたま能美郡の御幸村を過ぐると聞いて、病中の麥谷亞星氏を其村に訪ひ、氏を煩はすことを想うて玄關で立ち話をして辭し、那谷寺に著くと、既に金澤から來て安井、柴兩氏、中島、
江戸
兩夫人が約の如く待受けられ、また吉野恒氏が山代溫泉から來會せられ、また京都の親戚小林政治氏が東京よりの歸途ここに會し、共に山内の紅葉を觀て後、午餐を老師より饗せられ、即興の歌を揮毫してゐると、自動車で麥谷氏が追つて來られた。病體に障るであらうと我我は憂慮したが、今日お目に掛かつた感激の中に死んでもよいと云はれるのであつた。電車で福井へひと汽車おくれることを通知し、なは別を惜んで語る中に其時が來て、諸君に見送られて自動車に乘り、小林政治氏と動橋降より汽車に乘つて福井に向つた。薄暮の白山が残照を頂の雪に受けて優麗であつた。
----- 中略 -----
我我はこの旅行で北陸の秋の風景が關東、東北、中國、九州の何れにも似ず、やや京都に似て京都よりも更に大きく優れた別趣のあることを知つた。眞紅の紅葉に對照して白山立山の雪があり、連山に對照して多くの大河の展開があり、加ふるに北海を投控へ、平野には無風の好晴がつづく。我我は二週閒の旅行に雨に遇ふこと唯だ兩日であつた。この絶好の風光に恵まれた上に計らずも各地の諸君の歡待を受けたことは何たる幸ひぞやと感激してゐる。之に對して心窃かに愧づる所は十分に歌を詠む暇が乏しく、從つて自ら滿足する作物の無かつたことである。(寛)
冬柏 第八巻 第六号(昭和12年6月28日発行)p.482
雪崩
江戸さい子
君と聴く終りの除夜と告げずして寂しかりしよ鎌倉の鐘
初春の十一日に君逝けば我が家になし松の内など
後の世もゆく水のごと清からんうらやすらかに眠りつる君
老の世のよき日にあはで君逝きぬ花咲かしめと子を祈りつつ
もろ共につたなき道をあゆみきぬ君と経し世の二十八年
黒髪を顯正院にささげけり我も彩華と法の名を得て
夜の雪崩軒に落つれば更に又寒きこころの濡れまさるかな
在りし日の部屋なつかしみうちこもり今宵も一人白檀を焚く
足らはねど家と我が子を守るべし天眞居士のみたまやすかれ
聲低く何の宿世となげきつつ読経したまふ米壽の母よ
かなしみをかき消す春のもやならばつつまれてまし喪にこもる身も
わが部屋の柱つめたし雨晴れて春の日しばし窓にさせども
菜の花の咲く春毎にあこがれし四国遍路もなさずしてやむ
冬柏 第十九巻 秋季号(昭和23年10月30日発行)p.10
永平寺
江戸さい子
此の寺にまゐれば心清まりぬ白山水は汲めぬ凡下も
永平寺廊をゆく時ももの問えば答ふる僧のゐやの正しき
寅の刻起床の鈴の走る時庫院にまつる韋駄天を思ふ
幾百の階段のぼり暁の鐘鳴る堂にいそぐおん僧
み讀経のたふとき中に香焚きて我等もつづく朝の禮拜
僧堂に魚板の鳴れば雲水が筒に盛り運ぶ朝の白粥
大きさを誇るのみなり此の寺の廊に釣らるる無爲のすりこぎ
降りそそぐ朝の雨よし法の山十萬坪の青葉濡らして
渓川の河鹿の聲に送られてさらば下らん大寺の山
冬柏 第二十巻 春夏季号(昭和24年6月30日発行)p.9
朝ざくら
江戸さい子
比叡愛宕宇治川に見て山城の國うつくしと思ふ朝かな
霞より山は離れぬ浮島の十三塔に朝日さす時
ふるき世のにほひほのかにただよへり鳳凰堂の扉開けば
大方は剥落したりその壁畫松の青のみさやかなれども
花咲かば関白の世を示すらん平等院の庭の藤棚
浮き舟の君のことなど思ひつつ宇治の川瀬を夕月に見る
鳰鳥は湖上に飛べど島めぐる心踊らず春の寒きに
霊堂の外にありても合掌す此處は「光」の道場にして
咲く花の下臥ならで宿主の情の衾かさねてぞぬる
冬柏 第二十一巻 一・二月号(昭和25年2月28日発行)p.15
與謝野 寛・晶子創刊 二十年記念特輯「晶子と近代抒情」
近火
江戸さい子
これもまた天命ならば何とせん時のまがつび避くべくもなし
かくまでに燃えさかりたる火のきほひ風向きかわり彼方にぞ飛ぶ
龍神に水を捧げて得定尼祈りたりとよ我が家のために
御荷川(おにかわ)の水の手により漸くにおとろへゆきぬ我が裏の火事
冬柏 第二十二巻 一・二月号(昭和26年2月28日発行)p.13
文化賞
江戸さい子
うれしきはただ一筋に辿り来し道に光の添はる此の秋
身にあまるこのよろこびをきこしめせ母のみたまも背子の御靈も
はからずも文化の賞を賜はりぬ「にひしほ」歌集出でて一年(にひしほは私の歌集)
菊ダリア色百彩の花束を受けて薫りぬ今日の我が袖
何をもて此の感激をあらはさん我れには過ぎしけふの恩賞
かへりみて思い遥けし金澤に住みつきてより四十三年
晴れの式終りしあとの會堂に拍手わきたつ歌の朗詠
さらに又黄金の澤の眞清水に洗ひ洗ひて練らん我が歌(兼六公園に金城靈澤あり)
古びたる部屋も明るし文化賞わが手に持ちて(「おしいたゞき」に修正字句あり)家にかへれば
江戸紫
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